「浅草寺」の隣に「浅草神社」があるのはレアケース?お寺と神社の意外な関係性-後半-

文化と歴史

浅草寺の隣にある、浅草神社。

同じ敷地内に違う宗教の建物があるのは、実は珍しい、という話の続き。

前回は、そもそもお寺と神社の違いは?的なことをメインに説明してきた。

今回は、本題のなぜ浅草寺の隣には浅草神社がある?という部分について書いていきたい。

珍しいケースと言ってもこれは、”現在では”珍しいという意味である。

同じ敷地内にお寺と神社がどちらもある、という状況は、昔は普通だった。それが、ある時代の変化がきっかけで、珍しいケースになってしまった。

というのが、正しい。

その昔と、現在の境界線は、江戸時代と明治時代である。

江戸時代まではお寺と神社は一体だった

浅草神社

前回は、お寺と神社は違う宗教の建物で、特徴も異なりますよ、という話をした。

しかし、もしあなたがお寺と神社の違いをよく分からなかったとして、そのことに対して「お寺と神社の違いも分からないなんて~」みたいに言う人がいるなら、こう言い返してほしい。

「だって昔は、お寺も神社も特に区別されていなかったからね~。」「お寺と神社がはっきり分かれるようになったのって最近だもんね~」と。

実は江戸時代までは、お寺と神社は違う宗教ながら互いに手を取り合ってきた。

日本人は、日本古来の神様と、外来の仏様を重ね合わせて、どちらも信仰してきたのだ。

これを「神仏習合」という。

神仏習合という考え方では例えば、「神様は実は仮の姿で、本来の姿は仏様なのです」という発想をする。とにかく柔軟に、融合させようとしたのだということが伝わる。

そのため江戸時代までは、お寺と神社が同じ敷地内にあるというケースが多かった。お寺と神社が一体だったのだ。

浅草寺と浅草神社の関係性

浅草寺も浅草神社も、この神仏習合という考え方の元にできた、深いつながりのある関係なのだ。

それぞれの歴史、起源を見ながら、両者の関係性を知ろう。

浅草寺の起源

まず初めに造られたのは、浅草寺の方。

浅草寺に祀られているのは、「観自在菩薩」という、「観音さま」とも呼ばれる仏様だ。

浅草寺の言い伝えによると、この観音さまが現れたのは、飛鳥時代の628年と言われている。

近くに住む兄弟が、隅田川で漁をしている最中、網に引っかかった仏像を見つけた。土師中知という土地の長にこの仏像を持っていくと、これがご利益のある、観音さまだということが分かった。

兄弟は、功徳を授けてくれる仏様だと信じ、お堂を建ててこの観音さまを祀る。その後自分の家をお寺にし、観音さまの礼拝供養に生涯を捧げたという。

これが浅草寺の起源として伝わっている。

浅草神社の起源

続いて、浅草神社の起源の言い伝え。

浅草寺ができ、時が経った頃。

ある日、土地の長だった土師中知という人物の子孫が、夢で観音さまからお告げを受ける。

そのお告げとは、「兄弟と土師中知による、浅草寺建立の功績は大きい。その3人を浅草寺の傍らに神様として祀りなさい。そうすれば子孫・土地共に永久に繁栄しますよ。」という内容だった。

浅草寺を建てた3人を祀ったのが、浅草神社だったのだ。

このような由来を見ると、いかに両者が切っても切れない関係にあるということが分かる。

神仏習合という考え方のもと、両者につながりを持たせることで、人々はお寺も神社も同じ場所で信仰していたのだ。

神仏習合は、平安時代頃から生まれるようになったので、具体的な創建の年は不明だが、平安時代末期~鎌倉時代であるとされている。

明治時代の政策によって切り離されるお寺と神社

浅草寺と浅草神社のように、同じ敷地内にお寺と神社がある、という場所は全国各地にあった。

しかし、現在そのような光景を見られる場所は少ない。

それはなぜか。

その理由は、明治時代の新政府が、ある政策が打ち出したからだ。

明治の新政府は日本古来の姿を取り戻そうと、神道と仏教をはっきり分ける。つまりお寺と神社を区別するという政策を取る。これを「神仏分離」という。

それまでは、お坊さんが神社で働いている、なんてこともあったのだが、禁止される。

またお寺が廃止されてしまったり、過激な人たちによって仏像が破壊されてしまったり、この動きを「廃仏毀釈」というのだが、日本歴史において汚点とも言われる宗教改革が起こってしまうのだ。

僧侶がいていいのはお寺だけ。お寺と神社は別々の人達が管理しなさい。全く別物としなさい。という具合だ。

同じ敷地内にお寺と神社があるの少ないのには、このような背景があった。

なぜ浅草寺と浅草神社は隣同士にある?

ではなぜ、浅草寺と浅草神社は移動させられることなく、隣同士に位置しているのか。

その理由は、神仏分離は全国各地で行われたのだが、京都や大阪に比べると、東京のお寺を巡る動きは比較的穏やかだったからだと言われる。

なんとか厳しすぎる神仏分離運動から逃れ、敷地内にお寺と神社が存在するという、レアなケースが生まれたのだ。

しかし、それでもやっぱり、浅草寺と浅草神社とでは管理する宗教法人は別々になっている。

浅草寺のHPにある境内マップに、浅草神社が載っていないという事実が、それをよく表している。

終わりに

前半と後半に分けて見てきた、浅草寺と浅草神社の関係。

そこには、意外なお寺と神社の歴史があった。

お互いに共存してきたにも関わらず、無理やり離された神様と仏様。

日本人は、神様も仏様も大好きだが、そこには古くから親しまれてきた「神仏習合」という、日本ならではの考え方があったのだ。

コメント

  1. […] […]

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