自然豊かな日光の森の中、黄金に輝く日光東照宮。
見ざる聞かざる言わざるの三猿や、眠り猫などが有名だ。
首都圏からも行きやすく、修学旅行の定番でもある日光は、多くの方が、一度は訪れたことがあるだろう。
しかし、日光東照宮だけを訪れて帰ってはいないだろうか。
もしそうだとしたら、とてももったいない。
日光東照宮の同じ敷地内には、「日光二荒山神社」という神社と、「輪王寺」というお寺がある。
日光東照宮と合わせて、「二社一寺」と言われている。また、「日光の社寺」という名前でも世界遺産に登録されている。
東照宮=世界遺産というイメージがあると思うが、この2つの神社とお寺を合わせて世界遺産なのだ。
実は、この二社一寺を巡り、歴史を紐解いてみると、なんとなく神社とお寺の歴史について、神様と仏様の関係性について分かってしまう、はず。
それは、なぜか。
ポイントは、同じ敷地内に、違う宗教であるはずの神社とお寺が密集しているという点。
日光の二社一寺を巡りながら、神様と仏様の関係性の歴史を探っていこう。
日光の「二社一寺」
日光東照宮
日光東照宮は、徳川家康を神様として祀っている神社である。
徳川家康の遺言により、息子の2代将軍徳川秀忠が日光にお堂を建てて、家康を祀った。その後、3代将軍徳川家光が、絢爛豪華な建物に造り変え、現在に見られるような姿になった。
創建は1617年。江戸時代の初期の頃だ。
実は日光東照宮は、二社一寺の中ではかなり新しい。二荒山神社と輪王寺の歴史は、それより約850年も前から始まるのだ。
輪王寺
輪王寺は勝道上人という僧侶が、奈良時代の766年に、輪王寺の前身になるお堂を建てたという言い伝えがある。
この辺りの史実は不明だが、この勝道上人という人物は、日光の山を修行の場とした。
日光の山は古くから、山自体が信仰の対象とされる、近づきがたい神聖な場所だった。しかし、そこに勝道上人がお堂を建てたことで、日光は僧侶の修行の場として発展していくこととなる。
日光二荒山神社
縁結びのご利益があることで人気の二荒山神社も、勝道上人が建てた神社だ。767年創建と伝わり、日光の山を神様として祀っている。
これは、自然のものを神様とする、「神道」という日本独自の宗教による考え方だ。
以下の地図を見てみると、二社一寺が密集しているのが分かるだろう。
奈良時代からすでに、違う宗教であるはずのお寺と神社が共存していた。
そこには、日本独自の神道と、海外からやってきた仏教を、うまく重ね合わせた日本ならではの考え方がある。
神様と仏様をうまく重ね合わせた日本人
神社にいるのは神様。お寺にいるのは仏様。これに変わりはない。
しかし、日本ではどちらか一方のみを受け入れ、一方を排除する、ということはしなかった。どちらも受け入れ、別の宗教でありながら、互いに共存してきたのだ。
この考え方を「神仏習合」と言う。
この神仏習合という考え方のもと、「神様は仮の姿で、実は本来仏様なんですよ」と提唱することで、神様と仏様をうまく重ね合わせた。
神様=仏様という考え方
神仏習合の「神様は仮の姿で、実は本来仏様なんですよ」という考え方。
全国で多く見られる考え方だが、日光の場合はどうだろうか。
二荒山神社に祀られている神様は、輪王寺に祀られてい仏様が真の姿とされている。
例えば、二荒山神社に祀られている「大己貴命(おおなむちのみこと)」という神様は、輪王寺の「千手観音」が真の姿、といった具合に。
日光の山を神様とする、日本独自の神道という宗教。そこに仏教が入ってきて、神様=仏様という考えの元、両者が共存してきたという流れだ。
そのため、日光にはお寺と神社が密集しているのだ。
日本人の宗教信仰はいい加減?
このようにして古くから、日本人は神道と仏教を同時に信仰してきた。
そのため日本では、結婚式は神道の形式なのに、お葬式は仏教。家には神棚もあるのに、仏壇もある。という文化になっていった。
この日本独自の宗教信仰に対して、海外の方からしたら、「いい加減だ!」と思うかもしれない。
このことに関して、輪王寺の公式HPでは次のように述べている。
しかし神仏習合思想で考えれば、決して間違いではないのです。
神仏習合思想で考えれば、決して間違いではないのです。
神仏は、姿形は違えども、同じく皆様を護ってくださる存在であります。根本では同一である神仏それぞれにお世話になるということは、神仏習合を知る日本人にとって、正しい信仰のあり方だと言えるのではないでしょうか。
日光山輪王寺公式HPより
日本独自の「神仏習合」という思想の元では、間違ったことではない。「神仏習合」という信仰をする、日本人ならではの正しいあり方だ。ということ。
なので、日本人の生活において、神様も仏様も存在するという状況は間違ったことではないのだ。
私たちが、神社とお寺の区別がつきにくというのも、この神仏習合という考え方があったから、なのかもしれない。
それも日本人独自なのだろう。
しかし、この神仏習合という考え方がある、ということは知っておいた方が良いだろう。異なる宗教をどちらも受け入れてきた歴史があるのだ。
仏教を排除しようとした明治政府
しかし、そんな宗教に寛容だった日本独自の文化を、台無しにしてしまう時代がくる。
それは、明治維新。文明開化だ。
江戸幕府を倒した明治政府は、神仏習合を禁止にした。神道を国の宗教にしようと、神社とお寺をはっきり区別しようとしたのだ。
それには、天皇という神様を中心に、日本の政治を行おうとした背景がある。
この神社とお寺を区別させる法令を、「神仏分離令」という。
その過程で、お寺の貴重な仏像などが破壊されるといった、過激な出来事も起こってしまう。この仏像などが破壊されてしまったことを、「廃仏毀釈(はいぶつききゃく)」という。
この廃仏毀釈がなければ、日本の国宝は今よりもさらに多かったとも言われている。
日光も、神仏分離の対象になった。
しかし日光では、日光の山の中が大規模な信仰の場になっており、神社もお寺も入り混じった状態だった。そのため、一つ一つの建物を、「これは輪王寺のもの、これは二荒山神社のもの」とはっきり区別させるのが困難だったのだ。
なんとかお寺と神社を切り離して、現在呼ばれるような「二社一寺」という区別される形になった。
この神仏分離があったために、全国の神社やお寺が同じ敷地内にあるような場所も、はっきり区別されるようになった。
現在も同じ敷地内に存在している日光は、とても貴重なのだ。
神仏分離の動きは日光にも及びはしたが、あまりりも複雑に神道の建物と仏教の建物が混在していたために、完全に分けるということが難しかったようだ。
そのため日光は、貴重な形として、現在も同じ敷地内に二社一寺がある。
なので、このような動きがなければ、二社一寺という分けられた形で呼ばれることがなかったのだ。
神道の建物も仏教の建物も、東照宮も輪王寺も、二荒山神社も、全部まとめて「日光山」という宗教の信仰場所だったわけだ。
終わりに
日光の二社一寺の関係から、神様と仏様の関係を紐解いてきた。
神社とお寺というものは、今でこそはっきり分けられるものだが、昔はどちらも手を取りながら共存してきたのだ。
そこには、「神仏習合」という日本独自の考え方があった。
私たちが神様も、仏様も信じているのは、一見あいまいな宗教信仰だと思われがちだが、それも日本人ならではのものなのだ。
日光では、そんなことも感じることができる。
コメント