川越はなぜ「小江戸」と呼ばれるのか。そもそも「小江戸」ってなに?

旅行と歴史

都内からのアクセスも良く、インスタ映えのスポットとしても人気の川越。

色とりどりの風鈴が話題の氷川神社や時の鐘などの歴史情緒ある街並み、神社仏閣。

一大産地でもあるさつまいもを使ったスイーツやグルメ。

コロナ禍前の2019年には年間775万人の観光客が訪れ、過去最高を記録している。

足を運んでみると、京都のように着物を着た女性が多く、若い世代に人気だということが分かる。

個人的には、川越城と川越歴史博物館がおすすめなのだが、この年間775万人の中でこの2つを訪れた人は何人いるか…

もしかしたらネットやパンフレットで川越城の存在を知り、「川越にお城あるの!?」と行ったものの、「え、これがお城…?」とがっかりした方もいるかもしれない。本当はとても貴重な建物なのだが。

まぁこの個人的おすすめスポットの紹介は最後に少しだけ紹介するとして、今回は「小江戸」をテーマに話していきたい。

川越を訪れる人ならおそらく「小江戸」というワードはどこかしらで耳にした、もしくは目にしているはずだ。川越を紹介する情報番組やガイドブックにはもれなく「小江戸 川越」と紹介している。

では、「小江戸」とは何なのか。「江戸」は東京のことなので「小さい江戸」という意味だが、なぜ川越が「小さい江戸」なのか。

小江戸の真髄を知っている女の撮った風鈴と、小江戸が何かも分かっていない女の撮った風鈴では明らかに映え方が違ってくる。

小江戸とは?

そもそも小江戸とは

  • 江戸との関わりが深い町
  • 江戸のように栄えている町 

のことである。

「江戸のように」と言うと、現在の東京が近代化しすぎていてイメージつかないが、江戸時代の東京は現在は皇居になっている江戸城を中心として、城下町には武士や町人の家が建ち並び、商業や文化の発展した町だった。

要するに川越は商業・文化の発展した最先端の町。の小さいバージョンということ。下の写真のような街並みってこと。

川越の蔵造りの街並み

ではなぜ川越が「小江戸」と呼ばれるのかを

①江戸との深い関わり

②江戸のような商業の発展

の2点から見ていこう。

①江戸との深い関わり

江戸時代には「幕府と藩」という本社と支社のような仕組みがある。

江戸幕府の本社は東京に存在し、社長は徳川家。地方を有能な部下に治めさせ、支社の管轄するエリアを「藩」とする。

下のざっくり地図を見ていただきたい。江戸とその周辺の藩を表している。範囲は大まかなエリアだが、その丸いエリアが藩の管轄するエリア。範囲が大きさに比例して藩の権力や政治力も大きい。

そして、見ていただくと川越は、江戸に近いかつそこそこ大きい藩だということが分かるだろう。

忍藩と岩槻藩を含む川越藩は、江戸の北側を守る重要な拠点だったのだ。

そのため、藩には藩主というトップが一人いるのだが、川越藩の藩主は(他の2藩もそうだが)歴代徳川社長の身近で優秀な人物を選んでいる。江戸幕府本社が、川越を重要視していたということだろう。

ただそれだけでは小江戸とよばれるほどの発展は成し得ない。

この前提条件を頭に入れた上で次にいきたい。

②江戸のような商業・文化の発展

江戸時代前期、全国で城の近世化を図ったり城を中心として城下町を整備しようと動きがあった。最新の守りの設備を揃えるとともに、政治の場、また商業の場としても発展させるためだ。

川越にも川越城という城があるが、その川越城を中心に城下町が整備された。

一般的に城といえば、

こんな、天守という建物を想像すると思うが、川越城にこの天守は建てられていない。

しかし、城の規模を大きくし、昔からその地にあった寺や町を取り囲んでひとつの強固な守りとした。

その際に整備された「川越街道」という道路と、「新河岸川」という川が、川越が小江戸と言われるほど発展したきっかけになった。

江戸と川越を結ぶ「川越街道」ができたことによって、江戸からやってくる人が川越を通るようになり、賑わうようになった。

そして特に川越の商業を発展させたのは、「新河岸川」を使った舟の運輸だ。

下のグーグル地図で、川越の近くを流れる新河岸川という川を見つけ、下流に向かってカーソルを動かしていってほしい。

東京にたどり着くのがお分かりいただけるだろう。

この川を使って川越の物産が江戸へ輸送されるようになり、また江戸からの物産も川越へ届けられたり、各地方へ輸送するための経由地点になったりした。

交通の便が良くなるということは、人が移動する。

人が移動するということは、文化も移動し発展する。

こうして川越には江戸の文化が届けられ、城下町を中心に商業も発展し小江戸とよばれるほどの町並みとなったのだ。

ちなみに話:川越と浅草の関係性

ちなみに、新河岸川は途中で墨田川と合流しているのに気づかれただろうか。

墨田川が近くを流れているといえば、浅草。

川越はさつまいもの一大産地なのだが、この舟運によって浅草にさつまいもが運ばれ売られていた。どうやら江戸では焼き芋がブームになったらしい。

現在でも浅草にはさつまいもを使ったスイーツが多く売られているが、それはこの歴史の名残である。

「小京都」とは何が違う?

以上、2つのテーマに沿って、川越が小江戸と呼ばれる理由を探ってきた。

ちなみに、川越の他にも栃木県・栃木市や千葉県・香取市が小江戸といわれることが多い。この3つの市は「小江戸サミット」という提携を結んで町を売り出している。

やはり栃木市も香取市も、江戸との水運によって栄え、江戸と交流の深い町ということで、小江戸と理由は川越と似ている。

似た言葉で「小京都」という言葉もあるが、こちらは「京都に似た景観や町並み」「京都と歴史的なつながり」「伝統的な産業・芸能」のある町並みのこと。

小江戸も小京都も名乗ったもの勝ちというところはあるだろうが、小京都にも全国京都会議という連携組織がある。こちらはなんと全国で45自治体も加盟している。

たしかに、あやかるなら京都の方がよさそうだ。

その45自治体のラインナップを見てみた。

なんとそこには、小江戸サミットの栃木市も(笑)

なんと欲張りな…

他にも小京都といってイメージが湧く町は、金沢や城下町が人気になってきている愛知の犬山などが思いつくが、どちらも2008年に脱退している。

「金沢」で十分ブランドを発揮できる町は、京都にあやからなくてもいいのだろう。

でも「小江戸」はもう現在「江戸」に何もブランド力がないため頼ることはできない。

今では小江戸の方が江戸よりも江戸らしくなってしまった。

今回、川越が小江戸と呼ばれる所以を紹介してきた。日本の古い景観が令和の今”映える”として人気なのは個人的にはちょっと安心する。

歴史に興味がなくても、その景色を見て心が動かされる。それは無意識に心で日本らしさを感じているということ。そこにちょっとした知識を、調味料的に加えてあげれば、その感情も膨らむはずだ。

川越の象徴になっている「時の鐘」は江戸時代初期に建てられた。

度重なる火災で焼失したがそのたびに再建されてきた。

今建っているものは4代目だ。4代に渡って川越の発展を見守ってきた「時の鐘」。

今も昔も変わらない音色に耳を傾けながら、少し時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

おすすめは川越城と川越歴史博物館

最後に少しだけ個人的におすすすめの歴史が楽しめるスポットを紹介したい。

もし歴史に興味がある人なら、ぜひ訪れていただきたい。

川越城

川越城の現存する本丸御殿

今回の記事の中でも何回か登場した川越城。

城のイメージである天守は存在しないが、御殿という藩主の住居だったり客間だったりする建物がある。

しかも、川越城の御殿は江戸時代からのものがそのまま現存しているだ。これは全国で4つしかないとても貴重な現存する御殿。

さらに、その御殿の中に入ることも可能で、それはもう年季の入った歴史を感じる色あいや木のにおい、歩くたびにミシミシとなる心地よい音など、現存する建物ならではを体験できる城である。

川越歴史博物館

川越城の近くに川越市立博物館という博物館があるが、そことは違う。もちろん市立博物館の方もぜひ訪れてもらいたいのだが、よりおすすめなのが川越歴史博物館だ。

こちらは個人経営の私設博物館で、なんともアットホームな雰囲気がいい。

館長のキャラクターも良く、気さくで展示されている本物の甲冑や兜、火縄銃、日本刀まで身に付けさせてくれるのだ。

本物に触れるという、私設博物館ならでのは体験ができるため、ぜひ訪れてみてはいかがだろうか。

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