長野のお殿様、転勤先にそば職人を連れて行きがち

文化と歴史

長野といったら、信州そば。

そばのお店の数は、日本一を誇る。

長野のそばが美味しいのは、水が綺麗という理由に加え、寒暖差が大きいために質の良いそば粉を作ることができるから。

奈良時代には、そばの実の栽培方法が伝わっていたそうだ。その後鎌倉時代に中国から輸入された石うすによって、そば粉が作られるようになると、様々な食べ方で食べられるようになる。

だが麺として食べられるようになるのは、それよりも後のこと。

戦国時代の頃、現在でも見られる麵の形が長野県のお寺で生まれ、江戸時代に入って全国に普及していった。

このような経緯で長野の人々に愛されている、そば。その地のお殿様もそばが好きだったんだな、と感じられるエピソードがある。

それがタイトルにもある、「長野のお殿様、転勤先にそば職人連れて行きがち」だ。

江戸時代のお殿様は転勤で土地を離れる場合、お気に入りの職人も一緒に連れて行くことがあったが、長野のお殿様の場合、そば職人を連れて行くケースが多かった。

今回は、長野のお殿様とそばについて見ていこう。

江戸時代のお殿様にもあった転勤

まずは、お殿様の転勤事情についてなんとなく知ってもらいたい。

お殿様にも、転勤というものが存在した。

江戸時代の全国の支配体制は、江戸にいる徳川将軍家(江戸幕府)をトップに、江戸幕府から領土を与えられた大名が、その地を治めるという仕組み。

本社と支社というイメージをしてもらえれば、分かりやすいかもしれない。

その支社のことを歴史用語で「藩」と言ったり、支社長である大名のことを「藩主」と言ったりもする。なのでこの記事では、「藩」「藩主」という言葉を使うとする。

江戸時代に全国では300近い数の藩があり、それぞれ独立した自治体として文化が発展していった。

藩主はお城にある屋敷に住み、藩に仕える武士たちと共に、その地を治めていた。

この藩主が、ここで言う「お殿様」のこと。

しかし、あくまでお殿様は支社長の身。本社からの人事異動には従わなければならない。

様々な理由で、藩主は治める地を変更されることがあった。これを「転封」と言ったり、「国替え」と言ったりする。

長野の主な藩

では、長野の藩はどうだったのだろう。以下に、長野にあった主な藩をあげる。

ちょっと有名な人物と、今回登場する人物をメインに取り上げてみた。

  • 上田藩…初代藩主は真田信之(真田幸村の兄)。のち信之は松代へ。その後藩主は仙石家→松平家。
  • 松代藩…真田信之の転封後は、代々真田家が藩主。現長野市。
  • 松本藩…藩主が頻繫に変わった。主な藩主に、のちに出雲へ転封になる松平直政。
  • 高遠藩…主な藩主に保科正之。正之はのちに会津藩の藩主になる。現伊那市。

見て分かるように、隣の地へ転勤することもあれば、松本→出雲のように遠く離れた地へ行くこともあった。

転勤先にそば職人を連れて行ったお殿様たち

このような転勤は、引っ越しの費用も自分たちで支払わなければならなかったため、とても負担の大きいものだった。

そしてなにより、慣れ親しんだ土地を離れるということになる。寂しい…。

なのでお殿様は、お気に入りの郷土料理や工芸品を作る職人たちを抱え込み、転勤先へ一緒に連れて行くということが少なくなかった。

それが理由で現在でも、〇〇藩のあの名物は、〇〇藩の名物がルーツだった、なんてことがある。

とりわけ例が多いのが、今回のテーマでもある、長野のお殿様とそばのパターン。地方の郷土そばのルーツが、実は長野のそばだった、ということが多いのだ。

長野のお殿様にとって、そばは欠かせない郷土料理だったということがよく分かる。

事例は3つある。さっそく紹介していこう。

出雲そばと松平直政(松本藩→島根・松江藩)

まずは島根の出雲そば。

出雲そばは、割子そばという、段になった丸い器にそばが盛られているのが特徴。薬味とつゆを直接かけるスタイルで、段ごとに違った食べ方が楽しめる。

出雲そば

この出雲そばは、松本藩の藩主だった松平直政という人物が島根の松江藩に転封になった際、そば職人も連れていったことから始まる。

そこからそばが普及し、庶民にまで食べられるようになった。

出雲大社の近くでは現在も、この割子そばが食べられるが、江戸時代の人々も出雲参りにやってきた時に近くでそばを食べたそうだ。

割子そばという形になったのは、出雲の人たちが野外でそばを食べるため、弁当箱に入れるようになったから。

長野から伝わったそばが、独自に発展していったのだ。

出石そばと仙石政明(上田藩→兵庫・出石藩)

現在は兵庫県の豊岡市にも、長野がルーツのそばがある。

出石藩という藩があったこの地では、出石そばという郷土そばが名物になっている。

小皿に盛られたスタイルで、山芋や卵を入れて味の変化を楽しむのが特徴だ。

出石そば

上田藩の仙石政明という人物が、転封先の出石にそば職人を連れて行き、そば作りの技法が伝わる。その後、出石焼という地元の焼き物が普及し、小皿に盛られるようになった。

出石には小京都とも呼ばれる出石城下町があり、江戸時代の風情ある街並みを楽しめる。その城下町にはたくさんの出石そばのお店が軒を連らね、食べ比べができるそば巡りも行える。

高遠そばと保科正之(高遠藩→福島・会津藩)

続いての登場人物は、保科正之。歴史の教科書にも載るような有名人だ。

高遠藩という藩の藩主だった正之もやはりそば好きだったため、会津に転封になった際にそば職人を連れて行った。

そのため、会津の郷土そばは「高遠そば」と呼ばれるようになった。

面白いのが、福島の会津のそばなのに、長野の地名である高遠の名前がついているという点。「会津そば」ではなく、「高遠そば」。そこに、会津の人たちの敬意が垣間見れる。

高遠そばの中でも、地域で独自に発展したものがある。

会津の大内宿という宿場町。観光スポットでも人気の場所だが、ここで食べられるそばは、他と同じ高遠そばではあるが、見た目がまるで違う。丸ごと1本のねぎがどかんと入っているのだ。

このねぎを箸の代わりにして食べる。この地でしか見られない独特な食べ方のそばだ。

会津の高遠そば

この由来には、「切る」という行為が縁起が悪いため、ねぎを1本丸ごと使うようになったという説や、ねぎを男性に見立てて子孫繫栄を願ったという説などがある。

ちなみにルーツである高遠では、そばは「辛つゆそば」という名前で親しまれていた。しかし1998年以降、会津の「高遠そば」という名前が高遠に逆輸入され、両者共に「高遠そば」という名前を用いるようになった。

おわりに

以上、長野がルーツになっているそば、3つの事例を取り上げた。

どれも長野からそば職人がやってきたためそばが普及され、それぞれ独自に発展しながら地域に根付いていった。

郷土間の繋がりを旅先で感じるのも、粋ではないだろうか。

そばで結ばれる、地域の繋がり。

そばは切れても、関係性は切れない。

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