中野に犬が10万匹!?「生類憐みの令」のやりすぎ動物保護

文化と歴史

私が12歳くらいの頃の話。

田舎の田んぼに囲まれた道を自転車で走っていると、遠くから5、6匹の野良犬が吠えながら全速力で向かってくるのが見えた。

とんでもなく怖かった。

「うわー!」と叫びながらなんとか逃げようとしたが、それが悪かったのか野良犬たちは私の足元を取り囲むようにして吠え続ける。

足を使ってなんとか追い払うことはできたが、今でもその恐怖のシーンは脳裏に焼き付いている。

その後も野良犬が現れると、石を投げたり声を上げたりして、襲われないように威嚇した。

と、まぁ私の田舎ならではのどうでもいいエピソード。

しかしもしこれが江戸時代だったら、私は逮捕されていた。かもしれない。

なぜなら、「生類憐れみの令」というとんでもない法律があったからだ。

生類憐れみの令とは?

「生類憐れみの令」という言葉を聞いたことがある方は多いと思う。

江戸時代前半、第5代将軍・徳川綱吉が出した、生き物の命を大切にしようと出した法律だ。

対象の生き物は犬や猫、鳥、魚、貝類や昆虫にまで及んだ。その中でも綱吉は特に犬を大切にしており、「犬公方」なんて呼ばれ方もしていた。

この生類憐れみの令は20年かけて100回以上出された法令の総称であり、生き物に関するいくつかの細かい法律が何度も出された。

最初の頃は「将軍の御成の道に犬猫が出てきても構いません。犬猫をつないだりしないでください。」といったレベルのものだった。

「将軍さまのおなーりー」「ははー」みたいなやり取りをイメージしてほしい。

将軍様の行列を横切ったり、邪魔したりなんかしたら命がない。普通は、将軍様が来る時間は表には出ないように、引きこもっていた。

犬や猫もつないで、無用なトラブルを避けようとしていた。

それを綱吉は、犬猫にたいして「苦しゅうない」と寛容な態度を表した。

しかし、これはあくまで前兆にすぎず、法律はどんどんエスカレートしていった。

エスカレートする生類憐れみの令

生類憐れみの令が出され続けた20年間、内容はひたすらエスカレートした。

「食べるために魚や鳥を飼って売買してはいけません。」とか。

「猟師以外は殺生してはいけません。」とか。

「犬や猫に芸を仕込んではいけません。」や「熊・猪・狼が家畜を襲い、これを追い払うときは怪我をさせぬように。」なんてレベルにまでなった。

熊と対面しただけで命の危機が迫っているというのに…。

たまに人里に現れた熊が退治されたというニュースがあるが、それに対しての「かわいそう…。なんで殺すの。」的な発言に通ずるものもある。

「犬や猫が鳥を襲ったり、互いに噛み合っていたりしていたら、痛くないように引き分けること。」なんてものもあり、これはもうどうやっても不可能だ。

引き剝がす際に猫を傷つけてしまったら罪だし、

見て見ぬふりをして助けなかったらそれはそれで罪だし、

猫が鳥を食べてしまっても自分が罪になる。

結果、猫を誤って殺してしまい、江戸の町を追放された人もいるという。

また、法令に背くような生き物を傷つけている人を見つけた場合、報奨金も出た。

そのため、「みんなこの法令の被害者だから、お互い協力しようね」とはならず、いつどこで誰に見られているか分からない状態だったのだ。

このような経緯から、生類憐れみの令は愚策として有名で、綱吉も悪評高い将軍になってしまった。

中野に建てた犬屋敷

こんな具合に動物ファーストの町になった江戸。

犬に危害を加えてしまうと処罰されるので、こっそり犬を捨てる人が続出。

町が野犬だらけになり、次第に子供たちを襲うようになる。しかしその野犬に対しても気を遣わなければならず、何も対処できない。

どんどん負のスパイラルに陥っていく。

そこで綱吉は、この問題を解決するため、法令を緩和…

するのではない。

更に犬たちを守るための策に出る。

犬屋敷を建て、江戸の町の犬を保護するようになったのだ。

中野に犬屋敷を建て、犬専用のかごで屋敷まで運び飼育した。

膨大な飼育費は税金から出し、近隣の農民に報酬を与えて世話をさせた。その飼育費、現代の価格でなんと年間98億円。

エサも米や魚など、人間が食べるような、いや貧しい人は米なんて食べられないからそれ以上。とても高級なものを食べて暮らしていた。

中野に建てられた犬屋敷。規模はこんなにも広い。

「かこい」と呼ばれるエリアが5つに分けられ、合計で東京ドーム20個分ほどの敷地。

最大で10万匹が飼われていたという。

現在は中野駅近くにこのような犬の像があり、この地に犬屋敷があったことを伝えている。

なぜ綱吉は生類憐れみの令を出した?

では、なぜ綱吉はこんなにも生き物の命を守ることに固執したのか。

従来の綱吉評価が低い人たちと、最近の評価で意見が異なる。

まずは従来言われていた理由。

綱吉には政策などを考える時に助言を求める僧侶がいた。

子どもがいなかった綱吉に、僧侶が「犬などの生き物を大切にすれば実子が得られる」という教えを説き、その助言に忠実すぎるくらい従った結果が生類憐れみの令。

綱吉は戌年生まれだから、より犬を大切にした。という説だ。

しかしこの説は、発令時期や綱吉と僧侶の行動時期などが辻褄が合わないために、可能性が低いとされている。

近年では評価が見直される生類憐れみの令と綱吉

では、最近の研究によって本来はどうだったとされているのか。

それは、綱吉が人々の命に対する意識を変えようとした。という理由だ。

綱吉が将軍だった江戸時代の前半は、まだまだ戦国風の荒々しさが残っていた時代。好き勝手乱暴に振る舞うような人もいた。

そんな風潮を変え、動物も含めて生き物を殺すことは悪いことだ、という意識を人々に植えさせたかったのではないか。とされている。

この研究は、近年綱吉の評価が上がるきっかけになっている。

また生類憐れみの令は様々な生き物の命を守るために出されたと思われがちだが、人間の命を守るための法令も存在した。

江戸時代では、間引きと称して育てられない子を捨てたたり、育児を放棄したり、老人を捨てるといった行為が存在していた。しかし、綱吉はそれらの行為を禁止したのだ。

これは現在の福祉にも繋がるとして、評価の高い政策になっている。

下の表は、PHP研究所の発行する雑誌『歴史街道』で実施された「最も優れた徳川将軍は?ランキング」の結果である。

1位初代 徳川家康
2位8代 徳川吉宗
3位15代 徳川慶喜
4位3代 徳川家光
5位5代 徳川綱吉

綱吉が5位にランクインしている。綱吉の評価が見直されているということが、歴史ファンの間でも浸透していっている結果だろう。

300年後に評価が変わるというのも歴史のおもしろい点のひとつ。

しかし、実際に当時の人々がこの法律をとんでもないと思っていたのは事実のようで、

将軍は養子となった6代将軍・家宣に継がれることになるのだが、綱吉肝いり政策「生類憐れみの令」は廃止されてしまう。

綱吉は遺言で家宣に「生類憐れみの令をしっかり引き継いでくれよ」と言ったそうだが、残念なことにその遺言が守られることはなかった。

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