日本人が「星」に興味を持ち始めたのは江戸時代からだった!?

文化と歴史

夜空に浮かぶ「星」。

私たちはよく、星に願いをこめたり、歌にしたり、ロマンチックな気分に浸ったりする。

冬に、3つ綺麗に並んだ星を見つけた時は、「あ、オリオン座だ!」と思う方もいるだろう。

しかし、私たちにこのような感情が生まれたのは、実は江戸時代からだった、かもしれない。

江戸時代以前の日本人は、そこまで星に関心がなかった可能性が高い。

もちろん星を綺麗だと思って、和歌に取り入れるような人はいたが、その数は月と比べると圧倒的に少ないのだ。

今回は、古くから星が生活に根付いていた海外と比較しながら、日本人と星の歴史を見ていこう。

古代の日本人にとって興味が薄かった星

古代の日本において、人々が空や宇宙への関心がなかったというわけではない。

『古事記』や『日本書紀』には天照大御神(あまてらすおおみかみ)という太陽の神様が登場しているし、月読命(つくよみのみこと)という月の神様もいる。

また『万葉集』には、有名な柿本人麻呂のこんな和歌がある。

あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隠らく惜しも

日は照らしているけど、夜空の月のように隠れてしまったことが惜しい、という意味の当時の皇子(天皇の息子)が亡くなってしまったことに対する、悲しみの歌である。

文学作品に星の登場回数が少ない…

それでは、古代の文学作品における、星の登場シーンはどうだろうか。

『古事記』と『日本書紀』には太陽の神様と月の神様がいるのにも関わらず、星の神様はいない。

また和歌についても、星について詠んだ作品は少なく、『万葉集』に掲載数で比較すると分かりやすい。月に関する和歌が100を超えているのに対し、星に関する和歌はたった5つだ。

少ないながらも、5つあるということは、全ての人が星への関心がなかったという訳ではなさそう。だが、このように月と比べてしまうと、差があるのが分かるだろう。

天文学の発展が遅かった古代の日本

これらの理由には様々な説があるが、一番は天文学の発展が遅かったからだと考えられている。

古代の日本では、科学的な天文学というものは存在していなかった。

中国からはすでに天文学が伝わってはいたが、それは暦の作成や占いのため使われるようなものだったため、星に関する知識というものはほぼ無かったのだ。

「あの一番明るい星は一番距離が近くて〜」とか「あ、あれはオリオン座だから冬に見られる星で〜」って思えるは、星に関する知識があるから。

当時の人たちにとっては、そこまで惹きつけられるものではなかったのかもしれない。

海外の人たちにとって星は身近だった?

星の中で、特に明るいものを選んで描く星座というものがあるが、これが出来たのが、今から約5000年前という途方もないくらい昔のことだ。現在のイラク付近、メソポタミア地方で作られたと言われる。

ちなみに日本は縄文時代。日本人が綺麗な石を集めて、土器の装飾にこだわってた頃、遠く離れたメソポタミアでは「あの点とあの点結べばサソリに見えるな〜」なんてやってたのだ。

どっちも素敵な文化だし、やっぱり地域で個性が出るよね。

海外では古くから星と文化は密接な関係

星座が存在していた古代文明では、ギリシャや西アジアなどに伝わる神様や伝説に、星座を当てはめるなどして、神話が生まれていった。

また中東などでは、砂漠の上をラクダに乗って旅をする、キャラバンというものがある。周りはひたすら砂漠だから、目印になるのは星だけだ。星を観察するという行為は、その地の人たちに根付いていたのだろう。

キャラバンイメージ

このように、海外では古くから、星と文化が密接に関わりあっていたということが分かる。

15世紀になると望遠鏡が登場

そして中世1600年頃になると、世界の天文学はさらに発展する。

あのガリレオ・ガリレイがオランダで発明された望遠鏡を、倍率20倍〜30倍の性能を持ったものに改良し、天体観測を始めるのだ。

そして宇宙に関しての、数々の新発見をすることとなる。

この望遠鏡は、南蛮貿易によって日本にももたらされた。

南蛮貿易とは、安土桃山時代から江戸時代にかけて、日本とヨーロッパ人との間で行われた貿易のことだ。

この南蛮貿易が始まったことで、鉄砲などのヨーロッパの最先端のものが日本にもやってきた。それと同時にキリスト教布教のため、フランシスコ・ザビエルのような宣教師も日本を訪れた。

その中には天文学に詳しい宣教師もおり、好奇心旺盛な日本人は熱心になってその人たちの話を聞いたという。日本人はここで初めて、地球が丸い球体であることを知るのだ。

江戸時代になって日本の天文学が発展

望遠鏡伝来も…鎖国政策によって忘れ去られる天文学

しかし、せっかく最先端の望遠鏡や知識が日本にやってきたのにも関わらず、日本の天文学が発展することはなかった。

それは、江戸幕府による鎖国政策だ。

江戸幕府はどんどん信者が増えるキリスト教に危機感を感じ、信者を追放したりキリスト教の信仰を禁止したりする。

そして海外との貿易を江戸幕府の管理下に置く、いわゆる鎖国政策を実施するのだ。

この鎖国による、天文学への弊害は大きかった。

望遠鏡は単なる美術品となり、人々の宇宙への関心も薄れていった。すっかり天文学の存在は忘れ去られてしまった。

1人の立役者によって天文学の道が開かれる

江戸時代も80年が過ぎた頃、暦と天の動きが合わないということが問題になった。

当時の日本の暦法は、中国から伝わったものだが、その中国では廃止になっていたものを800年以上もの間ずっと使っていた。日本は天文学が衰退していたので、完全に流行遅れ。そのため実際の天の動きとズレが生じてしまっていたのだ。

これをなんとかせねばということで、渋川春海という人物が日本人による初めての暦法を作った。

渋川春海

これがきっかけで江戸幕府は天文方という役職を設け、天文学の研究に力に入れるようになっていった。

渋川春海は天文方の役職に就き、その後も天体観測や観測機器の考案などに努めた。

渋川晴海が作った星座たち

天文学発展の立役者、渋川晴海が作ったもので見てもらいたいのが、星座だ。

現代で星座といえばオリオン座や天秤座など、西洋で作られたものが主流だろう。しかし古代の日本では江戸時代までずっと、星座イコール中国の星座であった。

中国星座は西洋で作られた星座の影響を受けていない、中国独自のものだ。星占いなどに使われた。

ある時渋川晴海は、中国星座の中に、目に見えるほどの星なのに名前をつけてもらえていない、可哀そうな星があるということに気がつく。

そこで渋川は中国星座に加えて、日本でも馴染むような星座を新しく足すことにした。

下の写真は江戸時代の図解で、中国星座と渋川の作った星座が描かれている。

岩橋善兵衛著『平天儀図解』

星座が感じで書かれている。良く見ると、この中にもちゃんとオリオン座が存在する。

アップしてみると…

岩橋善兵衛著『平天儀図解』

どうやら、オリオン座は中国星座では「参」と呼ばれていたらしい。その下には、歴史の授業で一度は耳にした言葉があるはず。「大宰府」だ。九州に置かれた行政機関の名前。

渋川はこのように、日本ならではの星座を作ったのだった。

江戸に作られた天文台

1700年代になると、8代将軍徳川吉宗がさらに天文学を推進したこともあり、江戸に天文台ができるようになる。1782年にできた浅草天文台は、葛飾北斎の絵にも描かれている。

葛飾北斎『富嶽百景』

これらの天文学の発展、そして天文台のおかげで星を観察するという文化ができ、人々にとっても宇宙が身近になっていったのだろう。

地方の藩校(武士を教育する学校)にも天文台の跡が残っているという事からは、宇宙への関心が日本全体にまで伝わっているということも伺える。

ご存知の通り、明治時代になると日本はガラリと変わる。

幕府の天文方は廃止になり、西洋の天文学が導入されていった。

暦は江戸時代まで使われていた太陰太陽暦から、太陽暦(グレゴリオ暦)に変わり、星座も西洋の名前で浸透していった。

星座の名前が変わったとしても、私たちが星を見て良い気持ちになれるのは、渋川晴海をはじめ、天文学に尽力されてきた方々のおかげである。

これからは、「冬は大宰府が光り輝いてるね」って言おうかな。

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