以前、県庁所在地になった地は、江戸時代の頃には城下町であるケースが多い、ということを述べた。
城下町というのはお城があった場所ということ。
藩の中心であったお城の周りは、その地域で最も栄えた場所であったため、廃藩置県によって県になってからも、その地に県庁が建てられることが多かった。
今回はそれの例外ケースを見ていこうという回。県庁所在地が、城下町に置かれなかった都道府県の話で、滋賀県の例を見ていこうと思う。
滋賀県はご存知の通り、県庁所在地は大津市だ。それにはもちろん理由があった。そして、県内最大城下町だった地への、県庁移転運動も起こった。
滋賀県独特の形や、近くの京都・大阪の存在も、大きく影響したようだ。詳しく見ていこう。
なぜ滋賀県の県庁所在地は大津市?
県内最大の城下町は彦根
まず知っていただきたいのは、滋賀県内の城下町で最大だった、彦根の存在。彦根城がある。
徳川家康の重臣である井伊直政が初代藩主だった彦根藩は、藩の規模を表す「石高」が、全国300藩の中でもトップ20に入る多さ。
幕末の「桜田門外の変」で暗殺された、15代藩主・井伊直弼も有名だ。
ちなみに彦根城は、江戸時代に建てられた天守がそのまま現存している、とても貴重なお城。国宝にも指定されている。県内最大の城下町だった名残は今でも感じられ、観光にももってこいの歴史スポットだ。
そんな、発展した町だった、彦根。
しかし、選ばれたのは、大津でした。
大津は京都に近い便利な場所だった
江戸時代から明治時代になった頃、発展した城下町は広大な敷地があっため、そのまま県庁の設置場所として再利用することができた。
しかし、大津は城下町ではない。
幕府の直轄領と言って、藩という地方の自治体を置かず、江戸幕府が直接治める地だった。
では、なぜ大津が県庁所在地になったのだろうか。
その主な理由は、琵琶湖を使った水運の拠点が大津にあったからだ。
琵琶湖水運は、京都・大阪と東日本を結ぶ重要な交通手段だった。明治15年に鉄道が開通されるまで、物資の集散の中心地は、大津の港だった。
大津は、滋賀の港として栄えた場所だったのだ。
また、主要都市の京都や大阪に近いという点も、重要なポイントだっただろう。
こうして地図を見てみると、彦根に比べて大津市の方が、京都・大阪へアクセスしやすいということがよく分かる。
なぜ「大津県」ではない?
元々は存在していた「大津県」
明治時代になり、廃藩置県によって藩が廃止され、県となる。
初めは全国の約300の藩が県に変わっていき、その後合併などを重ねることで47都道府県になっていった。そのため、全国各地で、今では存在していない県名が使われていた時代もある。
滋賀県内では、廃藩置県によって、北半分が領域の長浜県(のちに犬上県)と、南半分が県域の大津県ができる。
意外にも、この時点では滋賀という名前は使われておらず、大津という名前が県名に使われていたのだ。
大津県が存在していたのは2か月ほどで、あっという間に滋賀県という名前に変わる。そして、その後犬上県が吸収され、現在の県域と同様の滋賀県ができあがる。
「滋賀県」になった理由
では、なぜ現在に残る県名が大津ではなく、滋賀になったのか。
大津県のままなら、県名と県庁所在地名が違う都道府県として覚えなくて良かったのに。あれ、どっちが滋賀でどっちが佐賀だっけ、なんてことにもならなかったのに。
その理由は、新政府の官僚が、大津という名前は相応しくないと訴えたからだと言われている。
大津は元々江戸幕府の直轄領地だったため、大津代官所という、幕府の役所が存在していた。
しかし、明治維新で文明開化を進める新政府にとって、江戸幕府の名残は悪しき存在であった。「大津の名前をそのまま使ってたら、文明開化できない!」という意見が出たのだ。
当時、滋賀県内にには12の郡(エリア的なもの)に分けられており、大津は滋賀郡という地名に属していた。そのため、郡の名前を取り、「滋賀県」に改名されるに至った。
ちなみに、滋賀そのものの名前の由来は、石が多い場所という意味の「シガ」という言葉を、「滋賀」という漢字に当てはめたという説が有力。
過去2回起こった彦根への県庁移転騒動
このような経緯で大津県は一瞬でなくなり、滋賀県が誕生したのだったが、県庁所在地は変わらず大津のまま。
滋賀県の中心として、発展していくこととなる。
しかし、忘れてはいけないのが、彦根の存在。そして、滋賀県の独特な形。
南の端にある大津は、北に住む人からしたら、とても行きづらい位置にあった。また、鉄道ができると、彦根の交通網が発展する。
かねてより城下町として栄えており、さらに交通の要所にもなった彦根は、県庁を移転させようという意見を出し出し始めるのだ。
1回目:明治の県庁移動騒動
彦根への県庁移転騒動は2度起こる。1度目は明治24年。滋賀県の議会で、県庁を移転させようという意見が転出され、しかも賛成多数によりこの意見が通ったのだ。
しかし、当時の県知事が反対して、議会そのものを中止にするなどし、県庁移転案は消滅することとなった。
2回目:昭和の県庁移動騒動
2度目は昭和11年。前回は挫折してしまった、県庁の彦根移転を成し遂げるべく、再度議会へ意見が転出される。
明治時代までは琵琶湖の水運が交通手段の主要だったため、大津は重要な場所だったのだが、鉄道ができることで琵琶湖水運が機能しなくなった今では、大津の意味がない、という理由もあった。
しかし、議会でこの意見は通ることなく、再び県庁移転案は消滅した。
終わりに
2回に渡って県庁移転運動が起こった滋賀県。
前回紹介した長野県と共通して言えることは、移転騒動があるという点だ。
長野県の場合は、松本が県庁の移転を訴えていた。今回の滋賀県も彦根が県庁移転を訴える。どちらも現在の県域になる前は、別の県として上下に分かれていた。
これは、全国に300あった自治体を47にしていく過程で起こった、弊害なのかもしれない。
今後も城下町と県庁の様々なケースも見ていきたいと思う。
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